【横山験也のちょっと一休み】№.3322

読書中の『吾妻鏡』。
源平戦からスタートしているのですが、途中、目につき始めた言葉が「飛脚」です。
やたらと飛脚が頼朝の所へ届きます。
ところが、平家滅亡と決着がついてしまうと、「飛脚」はあまり出てこなくなります。

もしかすると、飛脚は合戦で生まれた速達ではないかと思えています。

それまでも、その後も手紙は行きかっているはずですが、合戦になり戦況をいち早く把握するために、「とにかく、急げ!」と、それを「飛脚」と呼んで走らせたと思えています。
文字からしても「飛んでいく脚」ですから、特別に急がせていたように思えます。それが、次第に普通の手紙の配達人全般を指す言葉になったのではないでしょうか。

この飛脚ですが、個人的に江戸時代の様式と思っていました。それが鎌倉時代直前に出てきたので、しかも、何度も。気になり調べたところ、「平安時代末から現れ」と世界大百科事典にあり、「古くからあるなぁ」と感心しました。
その直後、ちょうどそのあたりを『吾妻鏡』で読んでいることに気づきました。
「飛脚」発祥あたりを読んでいると思うと、読みにも力が入ります。

その飛脚ですが、すべて戦地に赴いた武将の家来が届けています。職業人としての飛脚人が、手紙をバトンにして届けるというシステム化されたスタイルではありません。
読んだ範囲での「飛脚」は、到着したことが示されているだけですが、1か所だけ、壇ノ浦の合戦で平家討滅の報を届けた飛脚の所は、ちょっと様子が違っていました。
書状を渡した後、
「使者を召して、合戦の間の事、具(つぶさ)にこれを尋ね下さると云々」
とあります。
記録としては、壇ノ浦の所だけ、このように書いたと思われますが、たいていの場合、使者は口頭でも様子を報告する役目を負っていたように思います。
ただ、壇ノ浦では頼朝が直々に聞いたので、記録されたのでしょう。
頼朝も、よっぽど嬉しかったのだと思います。

でも、頼朝に直接話すのは、使者としては緊張するでしょうね。
一人だったら口がこわばって話ができないのではないかと思います。
そうすると、飛脚を運んだ使者は複数の人数とも考えられます。
まだ、街道筋も安全ではないところからも、そう思えてます。
「具にこれを尋ね下さる」は状況が浮かぶ名文句ですね。

この後、守護地頭を各地に設ける話が出てくるのですが、設置理由が実に素晴らしい。これについては、またの機会に記します。

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