「小学生のころ、最も印象的な国語の話は、『雨の早慶戦』です。」
と、何かの拍子に話したことがあります。
隅田川あたりで行われたボートレースの話です。
私は「雨の早慶戦」という題だったと思っていたのですが、ネットで検索をしたら、違っていました。
「あらしのボートレース」でした。

改めて、この話の全文を読んだのですが、小学生の時のわくわく感同様に、強い感動を受けました。
嵐ですので、ボートに雨がたまります。
川と言えども波が立つので、川の水もボートに入ってきます。

慶応ボート部は最後まで全力でこぎ続ける道を選びました。
早稲田ボート部は半数の4人が桶で水をかい出し、残った4人がこぎ続ける道を選びました。

はじめ慶応が大きくリードしていましたが、次第にボートに水がたまり速力が落ちます。
そうして、ゴール手前でついに沈んでしまい、早稲田の勝利となります。

この話は非常に教訓的に私の中に残りました。
がむしゃらに進むんじゃない!
状況を考えて、それなりの準備をしろ!

この年になって読み返してみても、同様のことを感じます。
歳をとったせいか、大会委員長は延期の判断ができなければ・・・とも思いました。

この感動的な、道徳的な話。
なんで国語の教科書に載っていたのでしょう。
ふと思ったら、当時はまだ道徳の副読本すら無かった時代と思います。
それでも、道徳は教えなければと考えて、国語の中に道徳教材をまぶしていたのではないか。そんな気がしています。

では、この「あらしのボートレース」を、国語らしく、早稲田の選手はどんな気持ちだったでしょうか。慶応の選手はどんな気持ちだったでしょうかと問うたら、どうでしょう。
せっかくの教訓的な内容がかすれてしまいます。
心情曲線を書いたらどうなるでしょう。教訓的な世界からどんどん離れます。
ましてや、どこから見ているでしょうかと視点を気にしたら、道徳からは絶望的な状態となります。

教訓的な力のある教材は、国語のように迫らない方が良いのです。
では、どう授業を進めたらいいのか。
それには、「自然道徳」と「学問道徳」を念頭に入れるところから考えることになります。
すると、「困難」の構造を把握する授業になっていくでしょうね。

道徳は、やっぱり論語を読むことです。
私の机の上にも、『日めくり論語』があります。
毎日見ているだけも、良い勉強になります。
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