【横山験也のちょっと一休み】№.3469
高橋さんから達磨を頂きました。左目から先に入れるとアドバイスもいただき、家にて願をかけつつ墨を入れました。
目玉ですから、まん丸になるように描きたいとの思いがあり、ここがもう少しと墨を入れると、今度はこちらがもう少しとなり、次第に黒目が大きくなり、まん丸には今一歩ですが、これで良しとしました。
願いを達成することと、達磨に目を入れること。
ここには因果関係はありません。因果関係があると思ってしまう人はいないと思いますが、万一、そういう人がいたとしたら、結果が出た時に、「達磨に目を入れたから、願いが叶った」「達磨に目を入れたのに、願いは叶わなかった」となり、どことなく、自分の願いを叶えるために、自分は大して努力をしていないように感じられます。
因果関係は無いと分かり切っているのに、達磨に目を入れるのは、なぜでしょうか。
思うに、願いを込めて目を入れることで、また、その後は達磨を見ることで、心新たに自分の成すべきことを自覚し、事を進めようとする自分になるからです。
願いには、だいたい2つの種類があります。
1つは、〇〇さんのために、との願い。自分のためではなく、人のためになる願いです。徳のある願いです。
もう1つは、自分のための願いです。自分の成し遂げたいことが達成されるようにとお願いします。そこを見つめると、ちょっと自分の利益のための願いと思えてきて、利己的な感じもしてきます。そこで、昔から自分の達したい事柄には、そこに人としての道理、意義があるのかと自問することが大切とされています。論語にも「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」とあるように、「〇〇の人たちのために、私は〇〇を成し遂げたい」と願うことが肝要となります。
そんな風に思っているので、自分への願いには、自分なりに義を意識して願うようにしています。今回もそのようにして願をかけました。
—
日めくりの『教室論語』、岩崎淳先生の『いまを生きる論語』。良いですね!
—
関連記事: