【横山験也のちょっと一休み】№.2350
■道徳について、思うこと■
この春から、道徳は教科書が使われるようになりました。
教科書ができたら教科書教材を使う。
というのは、どうにも主体性を感じにくいです。
国語の場合、自分が小学生のころから教科書で学んでいたので、教師になっても教科書で国語を教えることに、何の疑問も持ちませんでした。
でも、道徳はこの春になって初めて教科書教材を使う流れになったので、なぜ教科書教材なのかを考えたくなります。
まず、コントラストを付けるために、教科書教材を使わない道徳を思い浮かべてみます。
すぐに、旧友の深澤久先生達の取り組みが浮かんできます。
新聞の記事や、写真、日常の物など、いろいろなところに目を向けて、教材化しています。
こういうのと、教科書教材はどう違うのだろうかということです。
私の感覚では、教科書教材の内容は、「日常の一光景を道徳面から見た文章」に見えています。
日常の一光景ですから、友だちが出てきたり、家族が出てきたり、勤めている人も出てきたりしています。
読んでみると、似たようなことが自分の身近に起こることもあり得るだろうなと、思えます。
これ対して、教科書以外から教材化しているものは、目にすることはあるのですが、生活という感覚からすると、私にはちょっと遠い所であったり、よほどの意識をしないとならない世界のように思えます。
そんなことをあれこれ思うのですが、行き着く先は、やはり次の所と思えます。
なぜ、教科書教材を使うのか。
それは、身近な人間関係から道徳を学ぶため。
有り難いのは、文字で記されていることです。
そのため、内容が授業の始まりと終わりでずれるということがありません。
考える対象が安定しています。
安定しているので、じっくり考えることができ、次第に道徳観を高めていくことができます。
そうして学んだことが、実際の生活の中での考え方・感じ方に影響を与えるようになっていくのです。
仏教の経典も、キリスト教の聖書も、孔子の論語も、みんな文字で記されて、安定しています。
おかげで何度も読み返して道徳を少しずつ学ぶことができ、生き方に影響を与えてくれています。
道徳の教科書教材はそういった安定したところから道徳を学ぶ入門のテキストなのだと私は思っています。
改訂を通して、質の高い教材へと成長してほしいと願います。
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