今日は久しぶりに城ヶ崎先生と「道徳の一時」を過ごしました。
以前から、二人で話す時は自分たちを少しでも高められる、そう言う話を・・・と語り合って、不定期で会っています。
もし、二人とも徳のある人間でしたら、こういう一時を過ごす必要もないのですが、どうにも自分自身を思うと、恥じ入ることが多く、こういう一時を生かして物事をどう考え感じていくのか語り合っています。
今日の話しを振り返ると、「はじる心」になるかなと思います。
宿題を忘れてあっけらかんとしている子は、忘れる事への恥ずかしさが芽生えていないのです。
忘れると言うことは、言葉を変えると、約束を守らないということです。
その昔から、子供を育てる上で重要な叱責の言葉が2つあります。
1つは、「そんなことをしたら恥ずかしいでしょう」
もう1つは、「立派な人は、そういうことをしません」
この2つは、ともに「はじる心」を育てる言葉なのです。
孟子は「羞恥の心は義の端(はじめ)なり」と残しています。
「義」は「自分を犠牲にする」ことです。
宿題をやってくる子、そういう子は、「忘れたら恥ずかしい」という気持ちが湧いてくる子です。
ですので、自然と自分の時間を犠牲にして、先生に言われた課題を進めます。
宿題をやってくる、忘れ物をしないで持ってくる、そのこと自体が、子供の心に「義」を育てているのです。
忠義という言葉もあります。これができる人は立派です。
「忠」に向かって、自分の何かを犠牲にして取り組むことです。
わたしも精進したいと思います。
残念なのは、恥ずかしいと感じる心は一気に伸びてこないことです。
だから、粘り強い道徳の教えが必要なのです。
時として、先生が何かで忘れ物をした時、「先生は、恥ずかしいです」と子ども達に語り、恥ずかしさのお手本を示すことも大切な指導となります。
次回の「道徳の一時」はいつになるのか分かりませんが、わたしにとって楽しみな一時です。
『論語』は道徳を学ぶのに最適な本です。
今日も少し読みました。
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