【横山験也のちょっと一休み】№.2357

■道徳:「心と心のあく手」を道徳読み■
チーム横山に須田先生が提案してくれた教材です。
4年生、学研の教材です。

チーム横山でざっと読んで気づいたことは、大筋、外していなかったように思います。

この教材で一番輝いていると見えたのは、次の所です。

すると、おばあさんが石につまずいて転びそうになった。ぼくは思わず、
「荷物、持ちます。」
と声をかけた。

主人公は「はやと」君と言うのですが、この気持ちと声掛けができているので、はやと君はまず道徳的に問題がありません。

その先、また、おばあさんと会ったときのことが書かれています。
こちらは、親切を行動に移そうと思った一つの練習の姿ととることができます。まあ、街での親切デビューというところでしょうか。
親切のし過ぎ、親切のしそこね。
こういう過不足が当然ついて回ります。
体験をすることで、次第に、この程度が程よいとわかってきます。
ですので、後半のやや思い込みの強くなっているところは、大目にみるように読めばいいのです。

家に帰り教材文をもう一度読んでみました。
1ページ目の所は実にいいですね。

はやと君は大きな荷物を持っているおばあさんに声をかけようとしました。
素直に親切心が沸き上がってきています。これがいいですね。
次に、おばあさんがとても苦しそうに見えました。
そうして、どうしようかと思うのです。

ここに感じるのは「忍びざるの心」「見過ごせないの心」です。
こういう心が、「義を見てせざるは勇無きなり」へとつながり、行動として現れるわけです。
人として見過ごせない、人としてなさねばならないと感じ、行動に移す。
立派な道徳です。

はやと君はこういうことを理解しているわけではありません。
自然とそうなったのです。
これこそが人間の持っている元々の善を感じる心であり、善を行う元なのです。

もし、はやと君に何かを教えるとしたら、こういう言葉や今の自分の立ち位置などを教えたいと思います。

次に光っているのは、おばあさんやお母さんの言葉です。
おばあさん「ありがとうね。」
お母さん 「いいことをしたわね。」

おばあさんはまず感謝の言葉を言っています。いいですね。
見ず知らずの子の親切をありがたいと受け止めています。
その後、お断りをしています。
大したものです。

感謝の言葉をいただいたのに、はやと君は「せっかく声をかけたのに」と未熟なことを思っています。
今は未熟ですが、元々の心根が良いので、同様のことをこれから何度か体験することで成長します。
そうして、恩を着せないのが親切ということを学んでいきます。

特に素晴らしいのは、お母さんの「いいことをしたわね。」です。
はやと君が家での約束を遅らせているのに、はやと君のした道徳を褒めています。胸を打たれる言葉です。
道徳を褒めることの素晴らしさは、国語の教材に出てくる「かさこじぞう」のおばあさんのセリフに顕著に出ています。
褒めの最高級は「道徳褒め」と思うだけでも、人生は豊かになります。

教材文の最後に「本当の親切」と書かれています。
少々驚きました。「うその親切」はこの教材には書かれていないからです。
はやと君は、すべて「善意」で行動をとっています。
正しさから生み出された行為であれば、それは「本当」のジャンルに入ります。

教材文の筆者としては、行動に移すか見守るかというところでの「本当」という意味で記したのだろうと思います。
そうして、見守るという見方を教えたかったのだろうと思いますが、それならば、娘さんのところでそういうことを暗示させた方が良いです。
娘さんは自然体で見守っています。しかも、毎日です。
見落とせない光景ですよね。
私としては、行動・見守るとの区分けより、根本として善意を大事にすることの方が道徳としては有意義と思います。

読めばさらっと終わってしまうような教材ですが、道徳を考えると良い集中ができます。
何というか、道徳に浸れる感じです。
「道徳読み」の面白さ、充実感ですね。

若いころ、道徳の教材文にわざとらしさを感じたことがありました。
自分が道徳的に高まることを楽しいことと思えていなかったのでしょう。
教材文が何であれ、自分の持っている道徳で教材文を丁寧に読んでいくことです。「道徳読み」をすることです。すると、そこに充実感が引き寄せられてきます。
道徳は自分の道徳の質量で大きく左右される教科なのだとつくづく思います。
だからこそ、道徳は学ぶことが大事なのです。
須田先生の膨大な資料・意見を見るにつけ、そう思います。

関連記事: