【横山験也のちょっと一休み】№.2389
■『道徳読み』が増刷に■
3月に刊行した『道徳読み』が、おかげをもちまして増刷することになりました。
この先は、日本の道徳授業の中に溶け込んでいってくれたらと願うばかりです。
すれば、少なくとも、道徳の時間にお客様になる子はいなくなります。
先日の木更津で、国語と道徳の違いについて、少し話しました。
道徳が教科化になる前は、自主教材の授業が数多く行われていましたが、教科化になり、急速に教科書教材で授業をするようになりました。
そのために、国語も道徳も「教材文を読む」といところからスタートするようになりました。
ここで、ふと思います。
「国語の教材文と道徳の教材文には、どんな違いがあるのか」と。
文章はどちらもお話が書いてあるので、大差ありません。
「国語は長く、道徳は短い」という見た目の違いもありますが、さほど大きな違いとは感じられません。
私が大きな違いとして感じるのは、「読み手の感じ方」です。
道徳教材の文章は読むと道徳を感じます。
「それはダメだろう」とか、「ああ、何という心根」とかと思い、節々に道徳を感じます。
ところが、国語教材の文章は、それを読んでも国語を感じないのです。
「大造じいさんとがん」や「ごんぎつね」など、歴史ある教材文を読んでも、感動はしますが、それが「おお、国語だ!」という思いにはつながらないのです。
だから、国語では言葉の意味を問うたり、つながりを考えたりしていくための、「問い」が必要になっているのだと思うわけです。
でも、道徳は読むと道徳を感じます。
それならば、素直に、感じた道徳を記録し、それを語らえば、それだけでも十分にいい道徳の学びになります。
論より証拠というわけではありませんが、道徳見つけ(さがし)をした後で交流をし、そこで感想を聞くと、「自分とは違う見方、考え方が得えられ、勉強になった」というような感想をいただきます。
こういうことが分かってきたら、意識的に道徳を考え、感じるように読んでいけばいいのです。
それには、道徳を見つけていく読み方を繰り返し行うことが、その力をつける道となります。
「道徳読み」は、道徳の授業という形では新しい読み方となりますが、ああ、それ知っているよと普通に思われるようになってほしいです。
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