【横山験也のちょっと一休み】№.3487

部屋の整理をしていたら、『住職がつづる 平等院物語』という本が出てきました。そういえば、鳳凰堂を見学に行ったときのお土産に買った本かもしれないと思いつつ、少し読んでみました。すると、なるほどと感心させられた文と出合いました。

平等院の平等の意味はなにかとよく尋ねられます。特に海外からの参拝者には、なぜ、市民革命以前からこのような名称が、日本の寺院につけられているのか、真剣に議論を持ちかけられます。(p49)

戦後に平等というのならわかるのですが、1000年も前の平安時代に平等というのですから、日本は進んでいたと思われるかもしれません。

ふと、「平等」を古典ではどうとらえていたのかという意識が湧いてきました。
そこで、いつものジャパンナレッジの「新釈漢文大系」に「平等」という文字が出てくるかどうかを検索してみました。残念なことに、「平等」は使われていませんでした。
そこから、平等という言葉を使わずに、相応の意味を持った言葉を古典でも使っているのだろうと思えました。

たまたま読み進めていた「中庸」に、平等と似た概念が記されていました。「一(いつ)なり」という表現です。「わけへだてがない」「だれも同じである」という意味で、言い換えれば平等となります。(新釈漢文大系『大学・中庸』p264)
何気なく読み進めてしまうところでしたが、平等院の本を読んで、平等と同等語に関心を持てたので、読みがまた一つ楽しくなりました。

平等とは関係がありませんが、この『教室論語』、私の仕事部屋にも置いてあり、めくって一読みするだけですが、よい修養タイムとなっています。