道徳の授業「姿勢の良い人になろう」の本題に入る前に,2つの図を子供達に示しました。
その一つは,「人の図」です。
もう一つは,「人と自分の図」です。
この図を板書して,「人には優しく」することが大切であることを話しました。
特に説明は要しません。
それから自分の矢印を書き,自分にはどうするのか聞いてみました。
一人の男の子がすっくと手を挙げ,「厳しく」と答えました。
この答えに対して,私は80点をつけました。
本当なら,60点ぐらいです。
大人なら,50点をつけておいて,後から説明を加え,「まじめに考えると,0点」と言うかもしれません。
いずれにせよ正解ではないので,点数はその場の雰囲気で決めればいいのです。
なぜ,「厳しく」ではダメなのか。
なぜダメかを考えるとき,「なぜ『厳しく』と考えてしまうのか」を考えてみるといいです。
2つの事柄があり,一方が「優しく」です。
そこから,もう一方を決めます。
こんな時は,自然と頭がバランスを取ろうします。
バランスの中心は「普通」です。
すると,思考がほぼ自動的に,「優しく-普通-??」と進み,「厳しく」だろうと推測するのです。
バランスを好む頭,整合性を取ろうとする頭が,反対語で考える思考を生み出すのです。
国語なら反対語はとても大切です。
しかし,今は道徳です。
この図を見て,人と自分との関係を考えています。
どう考えても,「反対」という思考は似合いません。
道徳の世界は,人と自分とを「反対」にしようとはしないからです。
もし,人と自分が反対で有るべきなら,ゴミを拾う人の姿を見たら,自分は捨てようと思うことになります。
そうはなりません。ゴミを拾う人を見たら,立派だなと思います。
逆に,人がゴミを捨てる姿を見て,自分は拾うということがあります。
ゴミを捨てるのを悪いことと知っているからです。
道徳が反対するのは「悪いこと」に対してなのです。
人そのものを悪いと見なすことはあってはなりません。
だから,この場合は反対にとらえることはできないのです。
人と自分を考えるときに反対語で考えてしまうと言うことは,人を悪い人と見ているとも言えてしまいます。
よろしくありません。
では,自分にはどう考えるのでしょうか。
それは,次回書きましょう。
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男の子の答えが80点になったので,すかさず女の子が手を挙げました。
「やさしく」と答えました。反対語の世界から脱することはできませんでした。
道徳も,算数などの勉強と同様にそれなりに勉強が必要なのだと,こういう瞬間に感じます。
セミナーも終了し,フランクな時間になりました。
北海道から参加された小山内校長先生から,「自分の矢印が,なぜあんな風になっているのか」と質問を受けました。
さすがだなぁと思いました。
今すぐに理由を書いても良いのですが,その前に知っていて欲しい図があるので,それを示してから書いていきたいと思います。
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