【横山験也のちょっと一休み】№.3596

読んでいた本に、杜甫の詩が紹介されていており、

平生獨往願
惆悵年半百

平生 独往のねがひ
惆悵しゅうちょうたり 年半百
ごじゅう

とありました。

本には「独往」と記したのは荘子を意識してのことと解説されていましたが、私は「半百」に引き付けられました。
十六のことを「しし」と書くような、少しの小粋さを感じます。

そんなことを思っていると、「五十」はストレートなので、その年齢だけをピンポイントで示している熟語となります。
それを「半百」と書くと、百を意識しての五十、百を意識しての今の年齢、とも感じ取れ、同じ表現でもその内に広がる思いの大きさに違いが感じ取れてきます。言葉を選ぶ、漢字を選ぶことの奥の深さを少し見た思いです。

そこから、十六を「しし」と表す表現を思うと、どうもこちらは自分の才をひけらかしているように思えてきます。

杜甫の詩が載っていたのは、『荘子』(清水書院)です。荘子は勤め人の読む本ではないと思っていますが、自由な発想を大事にする先生には、お薦めの古典です。