【横山験也のちょっと一休み】№.3280

日曜日に、「いつものジョナサン」を開催しました。
城ケ崎先生と私の2人です。
話が弾み3時間を超えての大歓談となりました。

話題に上がった中に、前日のSG会のことがありました。
明石先生の式辞の話から、敬愛短期大学の「敬愛」の精神のすばらしさへと移りました。
「敬愛」は、「敬天愛人」のことで、「天を敬い、人を愛す」ということです。
この天と人とのつながりをどうとらえるかで、敬愛の精神が卒業生の心に終生残ると思いました。

天は人を照らすのですが、「あの人は良い人だからしっかり照らそう」「あの人は悪党だから照らすのをやめよう」ということをしません。
「あの人はお金持ちだから照らそう」「あの人は貧しいから照らすのをやめよう」ということもしません。
誰にでも同様に光を照らしてくれるから、天なのです。
だからこそ、天は敬うべき対象なのです。
「その天のように人を愛しましょう」というのが「敬愛」の精神です。

こうわかってくると、敬愛短大を卒業されて幼稚園や保育園の先生になり、やんちゃな子、愚図な子、鈍な子、聞き分けの無い子、不憫を背負っている子、いろいろな子がいて、いろいろなことがあって、それでもって、ちょっと辛くなった時に、ふと「敬愛」を思い出し、再び心に天を抱き園に向かう、そんな光景が見えてきます。
素晴らしいです。

同様のこととして、城ケ崎先生から、出身校である順天堂大学の「順天」は「天道に順ずる」ことで、それが「仁」とつながっていると、心にしみる話を受けました。

私の出身校は千葉大です。大学の精神が「千葉」という言葉には込められていません。教育学部の前に「師道」との石碑があるので、こちらが学部を建てた精神となるのでしょう。教師らしい教師の道です。

大学名と精神が一致していると、何かあったときにふと大学名が自分を応援してくれそうです。
「敬愛」はいいですね。
明石先生が敬愛短期大学の学長をされているので、敬愛の精神を私も少し頂けているとみなし、大切な言葉として心にとめていきたいです。

ところで、この敬愛。天と人は出てくるのですが、地がありません。
地は地載といわれ、選り好みせずにすべてを載せる精神です。
しかし、そこは示されていません。
もしかしたら、地は卒業生が自分で作り上げていく精神という意味かもしれません。そうだとしたら、本当に素晴らしい道を照らしていることになりますね。

関連記事: