■熊谷先生の言う、「型がある」から■
先月のことです。
熊谷先生から「道徳読み」に関するメールをいただきました。
その最後に次のように記されていました。
型があるからこそできることです。
この言葉はかなり大きく私に響きました。
「道徳読み」には、「読む」→「道徳見つけ」→「発表」→「通知表」→「省みる」といった流れがあります。
この流れを「型」と考えるのも良いです。
ですが、流れは型の一部である形です。
熊谷先生の言葉は、形ではない、もっと本質的なところ示しているように思えてなりませんでした。
なぜなら、型の本質は「技の保存」にあるからです。
これは、ちょっと考えねばと思い、しばし保留としました。
今日、久しぶりに『淮南子』を開きました。
「要を握りて祥を治む」
ここを読み、熊谷先生の言葉が再び浮かんできました。
多くの道徳の授業は発問で導かれていきます。
問いを出すことにより、新たな流れを生み、子ども達の思考を伸ばしていきます。
こういう授業を発問中心の道徳、「発問道徳」ととりあえず呼んでおきます。
「道徳読み」は発問をあまりしません。
何をするかというとは、「道徳見つけ」や「通知表」のように、あまり教師が流れをつくらずに、子ども達が主体的に考えることで流れをつくっています。
こういう授業は主体的に取り組む道徳のですので「主体的道徳」と呼べそうです。
日常の世界で普通に見て思うことを続けていると、道徳としての見方が衰えます。
道徳の見方考え方は意図的に学ぶ必要があるので、道徳の授業が行われています。
こういう、道徳としての見方考え方を自分の中に保存していくためには、型といわれる同じことの繰り返しの学習が必要となってきます。
発問で続ける授業は、これが上手くできません。
続けることが、やりにくい構造になっているからです。
淮南子の「要を握る」ができにくいのです。
道徳読みは、熊谷先生の言う通りに繰り返される型があるので、考え方見方の蓄積がされていきます。次第に、それが技となって、自然に湧き出るようになります。
「要を握る」
これができると考えられます。
熊谷先生は、道徳読みは、「資料に応じて、実態に応じて、教師の願いに応じて」授業ができると示しています。
これが、淮南子の「祥を治む」なのでしょう。
子ども達の主体的な読みを大切にする(要を握る)と、諸所に対応できる(祥を治む)のです。
こういうことなのかと、ふと思いました。
「型」への意識は、かなり重要なので、またしばらく保留し考えたいと思います。
若い先生の良いセンスから学べることが、とてもありがたいです。
このように書くと、道徳読みでは発問をして全くしないのかと思われるかもしれません。
そんなことはありません。
問うた方が良いなと思うときには、問うべきです。
「大きな木」を扱う場合には、発問は極めて有効です。
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