人間としてのできの悪さを思い知らされる,耳に痛い言葉です。
「三省」の後に,3つの事例が記されているので,自然感覚では3回反省すると読めます。
それでも良いですし,いやいや,いちいち1回2回3回と反省を数えているようでは,頭で反省しているような気がします。そうではなくて,心から自分を省みることが肝要と思えます。すると,幾度となく反省すると捉えるのも良い感じがしてきます。
あるいはまた,3つの事柄について反省しましょうとも読めます。人を手助けしたとき真心こめてしていましたか。友達と交わって信義の欠けることはありませんでしたか。習ってもいないことを伝えていませんか。
どのように省みても,自分自身が恥ずかしくなってきますし,人に対して申し訳なく思えてきます。
この条は,心から省みるとき,「忠」や「信」が大切なのだと教えてくれています。
ところが,自分でどう省みたかと,ふと思うと,なぜか技術的な所に目がいっている自分がいます。
もっと,こうすれば良かったとか,あそこであれはまずかった,こういう工夫で対応できるな,などと。
技術的な反省は,どちらかというと自分の出力への反省です。自分の出した内容なので,向上しようと思っている人は,自然,そこに着目をしています。表出的な反省と言えます。
それを,もう少し,自分の内側にある自分の心がどんなであったのかと省みるように教えてくれているのが,この条なのだと思っています。
ですので,少し意識的に,「忠」や「信」という点で省みてみようと思うのですが,この「忠」や「信」がわかるようでわからないような,ぼんやり感があります。
ただ,条を読んでわかるのは,「人とのことを省みる」ということです。
一人でいるとき,ふと,人とのやりとりをしていた時の自分の心を省みます。
そうすることが,忠や信を考えることになります。
この条は,「曾子曰く」で始まっています。
曾子は『孝経』を表した人とされています。
親孝行が大元となる「孝」の教えを書いた本です。
ですので,忠や信も「親への気持ち」「親のような気持ち」という所から考えて捉えていくと,私にはわかりやすくなります。
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