【横山験也のちょっと一休み】№.2831

zoom技法研(修養・道徳)が先週開催され、私も参加してきました。
修養・道徳では、毎回誰かが『論語』のレポートを提案するというシステムになっており、今回も論語についてのレポートがありました。

今回は、平野卓也先生と渡辺大貴先生からのレポートがありました。
平野先生のレポートは、思う所があれこれあったので、少し書いていきます。

子曰く、君子重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過ちては則ち改むるに憚ること勿かれ。(学而第一)

平野先生は、「己に如かざる者を友とすること無かれ」が腑に落ちない様子でした。
腑に落ちなくても、なんとも思わないのが普通のことです。

でも、平野先生は違いました。しっくりこないことを解決するために、諸橋轍次著『論語の講義』も開き、勉強していました。
こういう学び方、実に前向きで良いです。
平野先生のレポートに、その学びの姿勢の良さを感じ、思わず、わが身の姿勢を正しました。学びの友はありがたいです。

論語のように、歴史の重みに耐えてきた本には、数多くの解釈本が出ています。平野先生のように複数を手元に置いて学ぶと、次第に論語の奥深い教えが体に染み込んできます。

さて、「己に如かざる者を友とすること無かれ」ですが、これは、「自分より劣るものを友とするな」との教えです。
そこだけ、クローズアップすると、今の時代にはちょっと受け入れがたく感じられます。

この条、粗方、次のような内容になっています。

君子(上に立つ人)は重々しくありなさい。
しかし、重々しいだけだと頑なになるから、道徳を学びなさいよ。
道徳の学びは忠信を心にすえます。
自分より劣る者は学びの友としてはいけません。
そのようにしていても過ちをすることがあるから、上に立つものは素直に反省して改めることが大切ですよ。

ですので、「己に如かざる者を友とすること無かれ」というのは、「学ぶということに関しては」というの話なので、ここでの「友」を「互いに学び合う友」と私はとらえています。

そのことがよくわかることが、『大漢和辞典』(諸橋轍次著)に載っています。
大漢和辞典で「友」を引くと、解字に「同志を友といふ」とあります。
古の時代の「友」というのは、そういう高い意識のある仲間という意味で使われていたのでしょう。
ここからも、同志として学びを共にする相手は、相応の志ある人が大切ととらえられてきます。

論語には、友と似た言葉「朋」が出てきます。

朋、遠方より来る有り、亦楽しからずや。(学而第一)

こちらの「朋」も大漢和辞典に意味が出ています。
「朋」は、「同師」です。
師匠が同じ学び仲間です。
たとえば、野口先生を師匠として、そこに集う方々は、師匠が同じですので「同師」となります。

教室論語

広い意味での友だち。
同じ師匠を持つ同師。
志を同じくする同志。

「友」「同師」「同志」どれも大切ですが、学びの世界では同師・同志がやはりありがたい存在となります。
同師・平野先生の前向きなレポートから、いろいろと思いを巡らせることができました。
ありがたいレポートでした。


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