【横山験也のちょっと一休み】№.2669

■ 『三国志』:読めるの肌感覚 ■

夏目漱石の『草枕』を、もう少しで読み終わりそうなところに来た時、何をどう思ったかわからないのですが、『三国志』を読まなければならないと感じました。

これは天の声と思い、とりあえず、私にも読めそうなのを選んで購入しました。

全8巻の内の1巻から読み始めるのですが、読み始めて驚いたのは、その書きっぷりが、『草枕』とは真逆で、出来事ばかりの連続なのです。
これは、江戸時代ぐらいまでは中高生が読むような本だったのではないかと思いました。

それでも、自分にとってとても有益な何かに必ずぶち当たるから、それを楽しみに、とりあえず1巻を読み進めました。
面白かったのは、「読めるという感覚は、どういう仕組みになっているか」をしっかりと肌で感じることができたことです。
まさか、この感覚がこの本で味わえるとは思ってもいなかったので、これはありがたいと、第1巻に感謝の思いを持ちました。
とくに、第11回に劉備たちが登場したところで、「読める感覚」が急激にやってきました。

木更津技法研にお邪魔をしたとき、『教育と授業』の感想が語られていました。
この時、若い先生の中に本がよく読めないという先生がいたので、その先生に、それはとても素晴らしいラッキーな位置にいることを話しました。
読めないと感じる先生が、読書をしていくと、どこかの時点で「読める」と感じてきます。
そこを意識していると、国語の大きなテーマである「読む」という学習に本格的に迫っていく学習の糸口が見つかる可能性があります。
「できない」という状態は、その後の努力により、大宝になるということです。

私自身にも、それが言えるところがあるので、いつか、どこかで、「読めるということへの実感を自覚する」時がやって来るはずであると思っていました。
それが、どうも、『三国志』の第1巻だったということになりそうで喜んでいます。

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