【横山験也のちょっと一休み】№.3637
算数で学ぶかけ算は、たし算までしか知らない人から見たら、アッと驚く天才的能力と映ります。
それほど驚異的で有益なかけ算なのですが、それを学ぶ時に使われる文章題が何とも奇妙です。私と同様にかけ算の文章題にちょっと違和感を感じている先生も若干名はいると思っています。
例えば、次のような問題があります。
1つの皿にケーキが2個ずつのっています。
皿は5皿あります。
ケーキは全部で何個ありますか。
小学校の先生をしていると、この文章に何の違和感も持ちません。まあ、強いて言えば「5皿あります」をもう少し算数色を強めて「5皿分あります」とした方がいいかもと思う程度です。
私も2年生を何回か担任したことがあるので、次第に違和感を持たなくなったのですが、若いころは「この日本語、ちょっと変だよな」と思ったものでした。
日本では自分の住んでいるところを説明するとき、「神奈川県の小田原市だよ」などといいます。しかし、「小田原で、そこは神奈川県だよ」などとはまず言いません。
子どものころに遊び場を決める時も、「いつもの公園のブランコでね」とは言いますが、「ブランコ、いつもの公園ね」と言うと、倒置法かなと思ってしまいます。
広いところから狭い所へと順に言うのが日本語の習慣だからです。
ですので、まず、大枠をとらえ、そこからより具体的な一か所と話が作らるのが基本と思っています。
さて、先の文章題です。
普通の日本語感覚だと、「皿が5皿あって、そのどれにもケーキが2個ずつのっている」といった言い回しになります。この言い方だと、まず全体像が明確になり、そこから具体をとらえるので、すっきり感があります。
こう考えると、第1行に「1つの皿にケーキが2個ずつのっています」という文がより奇妙に思えてきます。この問題を書いた人(私ですが)は、5つの皿を見ているのです。どれもにも2個のケーキが載っていることも知っているのです。それを言わずに(隠して)、1つの皿だけに注目させて、読者に読ませています。だから、聞く側に奇妙感を持たせてしまいます。
「1つの皿」とあるので、ああ、皿は1つだけあるのですねと思います。すると、次の瞬間、「2個ずつ」という、複数ある時に使う日本語が出てきます。完全に後出しです。きわめて素直な子は、少々の混乱をするでしょうね。でも、その混乱は日本語を使う子として正常なのです。
自分で上記の問題を書きながら、「キミは性格が悪いのぅ」と言いたくなります。
しかしながら、算数の授業では、日本語として少々奇妙でも、個別を先に示し、後から全体を示すように書きます。それは、かけ算の式に持たせている意味が、2ずつ×5つ分=10となっているからです。かけ算の式と合致する言い方で問題文を作るようにしているからです。
ちょっとしたところですが、教科書や問題集などで出題している先生方は、相応の脳内日本語格闘をしています。
ただ、それでもやっぱり、この奇妙さを継続し続けていいのだろうかと思います。かけ算に限らず、少し文章題の書き方については検討する必要があるのではないかと、思っています。それは、子ども達の認識にウェイトを置く時代になってきているからです。頭ですんなりと内容を把握できるように、文章題を、ひいては算数をとらえなおすことも考えていきたいと思っています。
こういった理屈っぽい話は載っていませんが、下の3冊には楽しい算数のアイディアがたくさん載っています。子ども達の認識に刺激を与えるそんなアイディア教材です。