【横山験也のちょっと一休み】№.3648
先日のSG会で、Y先生のレポートを見て、ハッとさせられました。
千葉大の教育学部に「師道」の碑があり、そこから『葉隠』の「武士道」へと言及。
むろん「武士道とは死ぬことと見つけたり」との有名なフレーズを取り上げ、同様に、「師道」として、自分自身は何を意中に収めているかと続きます。
Y先生は師道の部分を「器の小さな話」とも書いていましたが、謙遜ですね。師道という崇高な概念を考えることは、すでにそこに道が現れるので、自分の人生をよく見つめている素晴らしい生き方をしている人となります。
個人的なことですが、新卒の時から、強く心に思っていたことがありました。
1つ。椅子に座って授業をするようになったら、教師をやめよう。(これは小学校6年生の時の恩師・小牧達郎先生のお言葉です)
1つ。1時間の半分は笑いが出る授業をしよう。(こちらは昭和の爆笑王・林家三平が「楽屋に笑いのバロメーターがあり、それが半分を切ると給料が下がる」と言っていた言葉からもじっています。実際に、面白くない授業は出席していても休むに似たり思っていました)
こういうのは師道とは呼ばず、個人的な信条となります。
師道と言うほどのことではなくても、何かしらを自分の中に持っているか、持っていないかは、歩みにそこそこの違いが出るように思えています。
Y先生は校長先生ですので、校長先生としての立ち位置での師道を記しています。
「子どもがいる時間は、子どもの
ために精一杯時間を使う。」
なるほどと感心させられました。
いい機会ですので、『葉隠』のはじめの「一」を、教師・師道に置き換えて読んでみました。
一 教師たる者は、師道を心懸くべきこと、珍らしからずといへども、皆人油断と見えたり。その仔細は、「師道の大意は何と御心得候や。」と問ひ懸けたる時、言下に答ふる人稀なり。かねがね胸に落着きなき故なり。さては、師道不心掛の事知られたり。油断千萬の事なり。
Y先生は油断していない状態と分かります。師道心掛の状態にあります。
道を外さずにしっかりと思いを貫くように歩んでいると拝察されてきます。
こういう先生と友達でいられることは、実にありがたいことです。
左の本は、Y先生も通うSG会の主催者・明石要一先生の御著書です。システム1、システム2から考えても良い本と高評が出ています。